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安田ヨウコ
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アレクサンダー・テクニーク教師
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アレクサンダー・テクニーク
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レインボーラボの安田ヨウコです。
アレクサンダー・テクニークのレッスンや、バッチフラワーのセッションなどを通じて、セルフプライマリーケアを提案しています。

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ちょっと今日は最近考えていることを書いてみようと思います。

私は以前から、「共感」ということに、両極端な感覚と考えを持っていて、

A「それ、わかる~」と、いとも簡単に感覚的に「共感」したくなる一方で、

B「相手の感覚は相手にしか本当のところわからない」
という強い信念があります。

Bのことを最近考えているんです。
誰かと同じ体験というのは現実的には他人にはできないので、
誰もが人生のある時点で、誰かの死を体験したり、自分の病気を
体験したり喜びや、悲しみや何かを体験したりしますが、
「同じような」体験をすることはあっても、全く「同じ」体験はないと思うのです。

本当には、その人しか、その人の感覚は味わえない。
人間のデフォルトの感覚があるかどうかわからないけれど、
もしあったとして、その上にその人のそれまでの人生と、
周囲との関係なり経験なりが積み重なって、その人がある。

だから同じ人はいない。だから、同じ感覚を感じるというのは
他の人には厳密にはできないと思う。

でも、自分なりの体験があって、想像力が豊かであれば、
他の人が、ある時にどのように感じるかということを、「想像」したり、
「共感」したりすることはできると思う。

「相手の本当の事はわからないのだ。」ということは、
すごーく当たり前なことだけど。私にとってこれはとっても大事な
こと。人生の教訓です。

その割に、迂闊に「わかるわかるー」なんて、よく言っていますが、
わかる部分もあるんですよね。それは嘘ではない。

それに、わかってほしいなーと思うこともあるんです。
お互い共感できたら、なんだかとてもうれしくなる。
悲しい時は少しだけ辛さが軽くなるような気がする。

これも当たり前。

震災地の方の気持ちは私には計り知れない。
それがとても悲しいと思う。
それで、一体自分がどうしたらいいのかがよくわからなくなるんですね。

でも、前にブログにも書いたけど、たとえば、世界や日本という
共同体の中の、自分は一つの細胞だと考えてみようと時々思います。

元気な細胞が、元気のない細胞のところへ移動することができなくても、
元気な細胞として、生命活動を一生懸命にしていたら、
共同体全体のためになるのではないだろうか。

地球全体の一部として私が生きていると思ったら、自分の役割を見定められるのではないだろうか。

元気のない細胞とずっとつながっているということをわかっていたい。
それでも自分は自分の役目として一生懸命に元気に生きていたい。

書いているうちに、自分が実は心からの共感が不得意で、
その言い訳をしているのかな?なんて思えてきました。

「わかる」ということを迂闊に言えないなということが言いたいんだけどネ・・・


あ!!、わかった!!!(言ってる傍からワハハハ)

わかる~というのと、共感はちがうんだな。たぶん。

共感というのは、わからなくていいのかもしれないな。

「共感というのは、相手が単にその人としてそうなのである。」
ということを受け止めるってことなんだな。

受け止めることまでが大事。
その後、わかったり、何とかしたりする手前までが肝心かもしれない。

そういうことができるようになりたいな。と思う。

ちょっと書いて出かけようと思っていたら、
長い時間かかってしまったナ。

共感するけど、ほんとはわからない?

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