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プロフィール

HN:
安田ヨウコ
性別:
非公開
職業:
アレクサンダー・テクニーク教師
趣味:
アレクサンダー・テクニーク
自己紹介:
レインボーラボの安田ヨウコです。
アレクサンダー・テクニークのレッスンや、バッチフラワーのセッションなどを通じて、セルフプライマリーケアを提案しています。

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からだとこころを楽にするレインボーラボのアレクサンダーテクニーク教師安田ヨウコです。

☆☆☆

アレクサンダーテクニークの人は「doをやめる(non-doing)」ということを大事にする。
でも、やめすぎのことがあるのではないかと最近感じる。

生きているということはdoなのかな?
生きているということは何かしらの方向性があると最近思うようになった。
それを邪魔しないのがノンドゥーイングで、
それはまったく何もしないということとは別のこと。
生きていたら何もかもを完全にやめることはできない。
だって生きてるもん。
生まれた時からじっとしていない命の持つエネルギーを止めようとするのとは違う。
生きることに伴う方向性を完全にやめるというのは、
それこそものすごくエネルギーがいるよね?
無理やり死ぬって大変なエネルギーを使う仕事だものね。
死ぬまでいかなくても、
ただ命を押し付けて動かないように封じ込めてしまうこともあって、
それは大人なら、わりと誰でも、単純に、当然のようによくやっている。
でも、封じ込めたら中でエネルギーがたまって吹き出し口を求めて問題が起こる。
命を見失うと、それがその人の持ち味なのだなんておもったりする。
でもほんとうにそうなのか、それは当人にしかわからない。

生きるということがdoかどうかわからないけれど、
それがアクティヴなものだということは感じる。
ほんとうは今まで時々しか感じていなかった。
それを感じたいような感じたくないような気がしていた。
それは私が、自分の命を動かないようにしていたからかもしれない。
邪魔をやめたらその動きが感じられるのかもしれない。

人間は植物的要素のみではできていないから、当然動くよね?
動きというのがもともと組み込まれている。
動くということは意志のあることだと思う。
意志を持って動くことがdoingだとは思わない。

でも、動きだすといつの間にかそれがdoingにとってかわられる可能性がある。
習慣や思い込みや技術やいろいろなものが先行して、
これまたよくあることだが、いつのまにか命の方向性を見失う。

生きていることの方向性のみにしたがって生きたとしても、
命は違うからその道は様々であるのに、
道に迷うと、だれかの知恵を借りたくなる。
でも本当に知恵があるのは自分の命かもしれない。

自然に死ぬ、というのは、
生きているという何かしらの方向性が
死という方向へかって収束したその時点で起こることなのかなと思う。
ジーン博士のイサドラダンカンダンスのワークショップで、
ハートの形のムーヴメントを踊った。

ハートの形をなぞると、中心から上に外に向かって放たれていき、
空間を抱いてなだらかな旅をして重力の方向へ降りてきて、
地の中心に収束する。
そのような感じ。
それから、ハートの形には二つの部分があって合わさっており、
受け入れる愛と力ある勇気と合わさっているという話もあって、
単に何もしないで流れに任せるというだけがnon-doingなのかな?
という疑問に対する、ヒントをもらった気がした。
WILLというのが人間にはあるということを改めて感じている。

いろいろなやりすぎを取り去ったとしても、
そこには意志が残る。
今生きている自分、という意志。

→→→

11月29日(土)子供・ジュニアバレエのためのアレクサンダーテクニーク
11月30日(日)ダンスをする人のためのアレクサンダーテクニーク
11月30日(日)ダンスやボディワークを教える人のためのアレクサンダーテクニーク
行います。詳細はこちら 


doingと生きること

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